1.私は今、どのような信仰を持っているか
 私はエホバの証人が偽りの宗教であるという確信を持ちました。また、イエス・キリストが救い主であり、私の神であると信じることができました。しかし、既に多くの元証人が実感しているように、まず信じるということは、比較的に簡単なのです。でも、この信仰を持続し、実践していくということが難しいのです。心で受け取る信仰は易しくても、実践していく信仰は難しいのです。  例えば、私は救われましたが、今でも疑い易く、問題や試練によって気力を失うことがあります。失敗したり、つまずいたりすることもあり、時には怠慢になることもあります。また、熱心になろうとし、いつの間にか律法主義に陥っている場合も多々あります。ですから私たちは、時々自分がよく分からなくなるのです。私には本当に信仰があるのか無いのか。どうすれば健全な信仰を得ることができるのか。また、どのように信仰生活を実践していけばよいのか。あなたはどのように考えますか。

2.信仰が弱くなったのか
 ある元証人の方は、救われた後に、自分の信仰が弱くなったと言われます。証人の時には、もっと燃えていたし、もっと信仰が強かったのに、今は段々と無気力になっていく自分に不安を感じているし、どうすればよいか分からない、ということでした。恐らく、同じような疑問を持つ元証人は多いと思います。この問題を考えるに当たり、私たちは、もう一度、原点に帰り、「信仰とは何か」というところから深く考えてみる必要があると思うのです。  例えば、熱心に伝道すれば、地上の楽園で永遠に生きられるというのは信仰なのか。また、神を信じれば、富が与えられ、名誉が与えられ、病が癒されるというのは信仰なのか。あるいは、一生懸命、神に従順することによって、神からの見返りを期待するというのは信仰なのか、という問題です。勿論、心で信じているならば、信仰と言えるかも知れませんが、自分の願いを実現させるために神を信じる、というところに問題があるのです。  このような信仰は普通、教会に通い始めたばかりの人によく見られる初歩的な段階の信仰です。そのうち、少しずつ成長するようになれば、自分中心の信仰から、神中心の信仰へと変えられていきます。これが信仰の成長です。ところが、自分中心の信仰から始め、終始一貫譲らず、あくまで自分中心的な信仰の人もいます。そのような信仰は、いつか砕いて十字架に付けてしまわなければなりません。まず、健全なキリスト者が確かに信じなければならないことは、「私が罪人である」ということです。自分では到底、神の前に立つことができない罪人であるという確固たる事実です。これが信仰の第一段階であり、基礎となるべきです。  以前の私たち(証人の頃)には、それが分かりませんでした。本当に分からなかったのです。「私は罪人である」と口では告白しながら、実際には、何も分かっていませんでした。その頃は、自分の行いによって、自分の義をもって神に認められるように努力していました。また、認められると考えていました。これは無知であり、妄想です。この無知は、自分の義を立てることに熱心であり、誰の話も聞かず、とうとう高慢になります。自分の義を立てながら、賢いと思っている人には教育も無用になるのです。

3.エホバの証人の信仰の実態
 使徒パウロは、このような熱心を自分のための熱心であり、世俗的であり、また情欲的熱心であると非難しているのです(ローマ十・三、ピリピ三・十八〜十九)。これがエホバの証人の信仰なのです。このような誤った信仰を持っている以上、聖書的な正しい信仰を得ることはできないのです。  一つの例を考えてみましょう。暴君アンティオコス・エピファネスがイスラエルを占領した時のことです。彼はイスラエル人が豚肉を食べないのを知り、それを迫害に利用しました。人々の面 前に長老たちを引きずり出し、豚肉を強制的に食べるよう命じたのです。食べれば生かすし、食べなければ続けてむちを打ちました。ある長老は血まみれになって倒れながらも食べなかったので、それを見ていた一人の軍人が、この長老を哀れみ、牛肉を持って来て、静かに言いました。  「これは牛肉ですので、食べてください。」  この長老は言いました。  「あなたがくれたこの肉が牛肉であることを、私は知っています。でも、他の人々はこれを豚肉だと思い込んでいるので、食べられません。」  この長老は続けてむち打たれ、死ぬ間際に、「私はイスラエルの律法のために死ぬ !」と叫んで息を引き取ったのです。

4.歪んだ信仰を脱ぎ捨てる
 さて、問題はここにあります。私たちは、この死を美化してよいのか、この死が果 たして聖なる殉教だと言えるのか、という問題です。輸血をすれば生きることができると知りながら、自らそれを拒否すること、あるいは、自分の子供や他の信者にそれを強要すること、また神意に逆らいながらも、「神に喜ばれる道だ」と自分が信じていれば、それが信仰と言えるのか、という問題です。これは妄想です。悲劇です。  言うまでもなく、エホバの証人の信仰は、神から与えられた信仰ではありません。それどころか、神の恵みを覆い隠そうとするサタンの働きです。私たちは、エホバの証人の信仰がどれほど歪んだ信仰であり、また、どれほど聖書から逸脱した教えであるかということをまず認め、今後とも、エホバの証人的な信仰からは、完全に決別 することを主の御前に宣言しなければなりません。

5.自分の力に頼りがち
 私があえてこのことを述べるのは、救われた後にも証人的な信仰から抜け切れていない元証人が多いからです。自分の行いによって神に認められようとする信仰、自分の努力で義になろうとする信仰、それがどれほど醜く、また、どれほど無謀であるかということをはっきりと知るべきなのです。そしてキリスト者はまず、自分の罪を認めるのです。

 

 
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